市進ホールディングス

コラム

column
 
2021.12.15

テストフォーミュレーション研究会

今年の9月から月に1回、企業の人材開発担当者の方たちとテストフォーミュレーション研究会(TF研)を開催しています。

もうかれこれ今月で4回目を迎えますが、毎回、テストづくりをテーマに様々な素材を扱いながら、「思わず解きたくなってしまう問いの要素とは何か」や、「答えのない問いをどう評価するか」などをプロジェクトメンバーと議論をしています。

いま、多くの企業でe-learning や動画教材の内製化が進んでいますが、オンデマンド教育の重要な要素である「理解度把握」や「研修転移」に課題を抱える組織が増えています。
そのオンデマンド教育の理解度把握の1つがテストになりますが、このテストの設計が実はかなり属人的に作られているように感じています。

例えば、そもそも動画を視聴しなくても解答が容易にできてしまったり、業務活用には繋がらない部分の知識を訊いていたり、知識とスキルの理解を混同してテストを作っていたり、更には記述問題で「何か書けば正解」になってしまう基準であったりと、私から見るとツッコミどころの多いテストを見かけます。

現在進行中のTF研では、これらのテスト作成技術の共有はもちろんですが、私が目指すところは、「テストをつくるだけで学習内容が自ら理解できてしまう」、もっと言うと「時間を忘れて理解したくなってしまう」という域までもっていくことです。そのためには、設問が魅力的でなくてはいけませんし、当然ながら面白いだけでなくエビデンスを示しながら学習効果に資する要素も必要です。

TF研メンバーと議論をしていると、テストづくりに関して様々な意見が出てきます。
例えば、「難度と思考の深さは相容れない」とか「テストづくりは合気道の間合いに通じる」や、「設問の評価はフィギュアスケートの採点方法が参考になる」、更には「テストづくりを通じて快不快といった感性的認識に繋がるところにゴールがある」といった哲学に言及するメンバーもいます。

このことは決して大袈裟でも独りよがりでもなく、学習した内容をテストという形で内側から内省的に浮かび上がらせ、そこから他者の思考を感化させる循環を作りだすことを意味しています。その意味でも、テストづくりは作り手と解き手の自由な発想が約束されたコミュニケーションとも言えるでしょう。

子どもも大人もテストに対するイメージは、ポジティブとは言いにくいですが、テストを作ることによって自分の学びの振り返りができ、しかも定着促進に繋がるとなるならば、テストへの認識は大きく変わってくるはずです。私はこのテストへの現状認識を「テストフォーミュレーション」によって変えていきたいと考えています。
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